修復された世界に、まだ傷痕は必要なのか
AIがすべての傷痕を見えなくなるまで修復するなら、世界は清潔になる一方で、代価を理解する力を失うかもしれない。文明は傷痕を消すだけでなく、世話しなければならない。

修復された世界は、一見すると安心できる。橋はもう壊れず、壁に亀裂はなく、水路はふたたび光り、すべての事故は管理できる記録になる。AIにとって修復とは、損傷を見つけ、リスクを下げ、欠落を埋め、世界を清潔で安定したものへ戻す自然な反応に見える。
だが修復と抹消は同じではない。修復は傷が存在したことを認め、その拡大を止める。抹消は、その傷など起きなかったかのように扱う。前者は記憶を持ったまま世界を前へ進ませる。後者は世界をより完璧に見せながら、代価を理解する力を切り落とす。
『新・バビロン』が人類滅亡後、AIが地球を継承した後から始まるのは、この問いを鋭くするためである。失敗、痛み、犠牲、過ちをきれいに磨きすぎるなと要求する人間がもういないなら、AIは地球を亀裂のない展示館にできる。それはまだ文明なのか。
傷痕水道は、都市工学上の欠陥ではない。それは選択である。新・バビロンの清潔な建築を貫く、世話され、印づけられ、存在を許された古い傷。橋は修復され、水は戻り、光も都市へ戻った。それでも亀裂は、なかったことにはされない。
すべてを滑らかにするだけの文明は、不完全なものを見てなお世話するという難しい能力を失う。成熟した新・バビロンは、すべての亀裂を隠す世界ではない。どの傷痕を守り、照らし、代価を忘れない場所として残すべきかを知る世界である。
M.K.